マツド・サイエンス研究所

写真を撮る喜び

秋晴れの先週末は息子の小学校の運動会だった。

昔は、子供の運動会と言うと、超望遠と望遠レンズを付けた一眼レフ2台を襷掛けにした上、ビデオカメラとコンパクトカメラを持って行ったものだ。

しかし、最近は、娘が小学校を卒業したこともあり、デジカメで写真を撮るだけになっていた。

息子の出場する100メートル走(当然、デジカメで撮影)の後、運動会の会場である小学校の校庭を一周ぷらぷらと歩いてみた。

しかし、最近の父兄は、ほとんどデジカメかデジタルビデオだ。

ビデオの方には余り興味が無い(と言うか、嘉川君のブログにもあるように、ビデオメディアはフォーマットがコロコロ変わって困るのだ。子供たちが幼い頃撮った Hi8 の再生にも困って居る)ので、主にスチール・カメラを見て回る。

2・3年前までは、必ずあった NIKON F2/F3/F4 や CANON F-1/EOS-1 と言った重量級やライカ/コンタックス等の高級カメラは鳴りを潜め、デジカメに取って代わられて居る。まあ、私自身が一眼レフを持って来ないのだから、人のことは言えない。

使われて居るデジカメの多くは、NIKON D70/D50 とか CANON EOS Kiss Digital N 等の入門デジタル一眼カメラだった。

そう言うのを見て居たら、無性に愛用カメラで撮りたくなった。もちろん、デジカメではなく、フィルムの一眼レフカメラである。

息子の次の競技の騎馬戦に間に合うように、学校の前に停めてある自転車に飛び乗り、家までカメラを取りに帰った。

私の愛用カメラは、既にホームページでも紹介したことがあるように、NIKON F3 HP で、購入してから今年でちょうど 20 年になる。フィルムは、夏に角田に遊びに行った時の余りが入ったままだ。これに ED180mmF2.8 を付け、小学校に戻って来た。

オール金属のボディとレンズは、ずっしりと重い。

ファインダーを覗くと、圧倒されるほどクリアな画像が飛び込んでくる。コンパクト・デジカメとは比べ物にならないのは当然だが、現行の一眼レフ(デジタル/アナログを問わず)に決して引けを取らない。

どピーカンの秋晴れの中、光が多過ぎる。元々、室内でフラッシュ無しで撮影するために ISO 400 のカラーネガフィルムを入れておいたので、せっかく開放絞りが 2.8 もあるのに、相当絞らないと駄目だ。

F3 の横走りのフォーカルプレーンシャッターは 1/2000 秒が最高速で、これじゃ、11 まで絞らんと飛んでしまいそうだ。

もう少し開けば背景をぼかせそうなのに、11 まで絞ったら、面白くないじゃないか。2.8 とは言わないが、せめて、4 か 5.6 まで絞りを開たい。フィルムが ISO 100 か 50 なら、良かったのに。1/4000 秒の FE2 にするか、ND フィルターがあれば良いのに・・・

そんなこと考えても後の祭り。グダグダ言ってもしょがない。

騎馬に跨がる息子を追う。

左手でピントリングを調整し、息子の横顔に焦点を合わせる。

右手の親指でフィルムを巻き上げ、シャッターをチャージする。F3 の芸術品とも言えるスムーズな巻き上げ機構の心地よい振動が伝わる。

騎馬戦が始まる合図が鳴る。息子たちの表情が変わり、出陣する。

その瞬間、シャッターを押す。軟らかに、そして確実に。F3 を始め、プロ用カメラのシャッター・ラグ(遅れ)は極めて短い。

今、切ったシャッターは絶好のタイミングだったことは明らかだ。

気持ちの良いシャッター音と共に、自分がニヤリと笑ったのが判る。

写真を撮るのが楽しい。

「写真を撮るのが楽しい、嬉しい」 そう感じなくなってから、久しいような気がする。

最近、私が主に使っているカメラは、Panasonic DMC FZ-1 と言う 200 万画素の高倍率ズームコンパクトのデジカメである。

このカメラ、決して悪いカメラでは無い。適当に軽くズームも効くし、大容量 SD カードを入れておけば、何百枚も撮れるので、持ち歩いては、バシャバシャと撮っている。

だが、「写真を撮る喜び」を感じない。

具体的に、デジカメで、何が足りないのか? それが良く判らない。

クリアでないファインダーとか、被写体だけシャープにし背景をぼかす事ができないレンズとか、シャッター・ラグが長すぎてチャンスを逃すとか、細かいことを言えば、きりは無い。ましてや、「巻上げのスムーズさ」や「気持ちの良いシャッター音」は、ある筈も無い。

だが、そんな事は本質的な問題ではない気がする。

F3 は、「写真を撮る喜び」のために作られたカメラでは無い。

プロ用カメラとして、報道やオリンピック、戦場、極地そして宇宙と言った苛酷な現場の記録を残す事だけに徹して作られたカメラである。

「スムーズな巻き上げ機構」は高速連続撮影のための副産物だし、「気持ちの良いシャッター音」もシャッターの耐久性向上の副産物に過ぎない。「クリアなファインダー」はピントをマニュアルで合わせるためのものだし、「短いシャッターラグ」も報道や戦場でシャッターチャンスを逃さないためのものだ。

つまり、F3 は、「記録としての写真を撮る」カメラであり、それに徹底的に最適化されている。

そこに「撮影者を喜ばす」機能など本来入る余地も無い。

また、F3 は、奇麗な写真が簡単に撮れるカメラでも無い。F3 を使い始めた頃、ひどい写真しか撮れなかった。フィルムを何本も無駄にし、撮影データを記録/分析したり、カメラの構え方やピントの合わせ方をトレーニングして、やっとまともな写真が撮れるようになった。

そんな気難しい、或る意味「冷たい」ほど機能的なだけの F3 を使った時の方が、何故「写真を撮るのが楽しい」と感じるのだろうか?

高機能・高性能なメカニズムを所有し操作する時の感覚・・とは、違うような気がする。

F3 を使う以前から、所有するカメラは増え続け、使ったカメラは数知れない。その中には、F3 よりも高機能なカメラもある。

そう言ったカメラも使い始めた時は楽しい。だが、「メカニズム玩具」としてのカメラには、すぐ飽きてしまい、使わなくなってしまう。

20 年に渡り、F3 が「愛用カメラ」の座を奪われなかったのは、「メカニズム玩具」を越えた要素があるからに違いない。

F3 で撮る時、作画意図が写真に直に伝わる、そんな気がする。

どう言った構図で撮りたいか、何処にピントを合わせ、何処をぼかせたいか、露出はどうしたいか、どのタイミングで撮りたいか。

そう言った「作画意図」が、何も足されず、何も引かれず、そのまま「写真」に反映される。

「写真を撮る時の喜び」とは、「撮りたい写真を撮る」と言う極く単純な事に帰着されるかもしれない。

F3 は、単に私の作画意図を忠実に守っているだけだ。

そんな F3 も、今では、簡便さやランニングコスト(フィルム代や現像代)のために、デジカメばかり使うようになり、年に数回しか使わなくなってしまった。

久しぶりに、F3 を使って、「写真を撮る喜び」を思い出した・・・ そんな次第である。

息子の騎馬は、校庭を走り回る。

それを追って、左手でレンズのピントリングを細かく調整する。

構図を決めチャンスを待つ。

タイミングでシャッターを切る。

絶好のシャッターチャンスだ。

息子の帽子が、相手の騎馬に取られた・・ その瞬間だ。

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