マツド・サイエンス研究所

ベイマックス 野田篤司の勝手な解釈

ディズニーのアニメ映画「ベイマックス」は極めて素晴らしい作品だ。私ロードショー公開中の2月頭に映画館で観て感動してしまった。その時に映画「ベイマックス」に込められたメッセージを私なりに解釈したのが、本文章である。

なお、この文章は、その性格上、映画「ベイマックス」のネタバレを含むので、注意してもらいたい。ネタバレによる被害(?)を可能な限り避けるため、この文章を書いてから何カ月も寝かしておいたくらいだ。ロードショー公開も終わり、4月24日にDVDやブルーレイの販売やレンタルも開始してから、1カ月も経っているので、もう良いだろうとブログでの公開に踏み切った。

以下、ネタバレを含むので注意!!

ベイマックスは「兄タダシを亡くしたヒロの立ち直り」を描いたような単純なアニメではない。と、2014年11月24日放映された NHK「魔法の映画はこうして生まれる~ジョン・ラセターとディズニー・アニメーション」の中でも言っている。隠された多くのメッセージが込められているのだろう。それについて、私なりの解釈を話そう。

映画「ベイマックス」は、少なくとも5つの階層に折り重なったメッセージが含まれている・と私は解釈している。

5つの階層のうち、第1と第2の階層は表面的なものなので、映画を見たら誰でも直ぐに判るだろう。第3以降の階層は良く良く考えないと判らないようになっている。まあ、私の深読みのし過ぎかもしれないが。

また、私が見逃している第6層以降の階層もあるかもしれないが。

【第1階層 日本アニメーションへの挑発】

最も日本アニメーションが輝いていた1970年代~80年代を彷彿させる『楽しい』アニメーション映像が連続している。例をあげると、乗用車によるカーチェイスシーンだが、これは、ルパン三世カリオストロの城のクラリスの2CVとルパンのフィアットのカーチェイスシーンを彷彿させる。

いまや暗くなってしまった日本アニメーション界に対して、現代アメリカアニメーション界はこんなに明るく輝くアニメーションを作れるんだよと言う事を示し、日本アニメーション界も楽しいアニメを作れと『挑発』している。

【第2階層 日本アニメーションへの愛】

明らかにエグゼクティブ・プロデューサーであるジョン・ラセター氏は、日本アニメーションを愛している。(第1階層 の『挑発』も『愛』の裏返しである)

そこここに、日本アニメーションへの愛、パロディ・オマージュが感じられる。

最も典型的な例が『ロケットパンチ』だ。ロケットパンチは、オリジナルであるマジンガーZ以降、幾多のアニメ・映画でパロディやオマージュが作られている。

しかし、未だかつて、ベイマックスのロケットパンチほど、愛が込められたロケットパンチは見たことが無い。これは、単なるパロディを超えており、日本アニメーションへの愛がなければ成し得なかったレベルに到達していると言わざるを得ない。

なお、第1階層 と第2階層 は、その性格上、1970年代~80年代の日本アニメで似たようなシーンを見た覚えがあるのは当然である。似たようなシーンがあるのはわざとであって、それでなおベイマックスのアニメ技術が遥かに上を行く状態であることに注意すべきだ。1970年代~80年代の日本アニメに同様のシーンがあることで、ベイマックスを、単なるパロディ映画と思ってはいけない。そんな薄っぺらい内容ではない。

【第3階層 未来を担う若者へのエール】

映画ベイマックスには、魔法はない。呪文も魔法のアイテムも無い。それどころか、修行も精神鍛錬も無い。妖精も妖怪も怪獣も出ない。

最近の映画にしては珍しく、未来科学技術を肯定的に表現している。

悪人も出ない(キャラハン教授は愛娘を失った悲しみのあまりの凶行で、根っからの悪人ではないだろう)。戦争も海賊も出ない。

戦争や海賊や魔法が無くても人生は楽しい。

訳の分からない魔法ではなく、人生は自分の創意工夫で切り開くことができる。ヒロは、空手の修行なんてせず、空手動画から、身体の動きを読み取ってベイマックスに書き込んだだけだ。

主人公が何かをなすとき、従来のアニメでは、魔法や修行など、実際には手に入らないものを手に入れることが必要だった。これは裏返すと、アニメを見ている観客に対し「あなたが何かをなそうとしても、何もできないんだよ。魔法なんて無いんだからな」と言っているのに等しい。

これに対し、ベイマックスでは、主人公ヒロは何も不可思議なものを手に入れていない。必要な知識は全てネットから手に入る(先の空手の動画や、キャラハン教授の論文などだ)。その知識に、自分の創意工夫を付け加えることで、自分がやりたいことを実現する。これは、アニメを見ている観客、特に若者に対して。「君たちはやりたいことを実現できる。必要な知識は、探す気になれば見つかる。それに創意工夫を付け加えれば良いのだ。」

この考え方は、科学技術の基本だ。その基本を踏まえて、映画「ベイマックス」は若者にエールを送っている。

(私は元々、人間ドラマとやらが大嫌いなのだが、ベイマックスのような形で極力「人間ドラマ」を排することができるとは、予想できなかった)

【第4階層 現代日本へのエール】

タダシ ハマダ。漢字名は「浜田正」だと思ったら、「浜田義」の様だ。つまり「正義」なのだ。

タダシの行動原理は、一分のブレもない。終始一貫して「他人を助ける」それに徹している。文字通り我が身に変えても他人を助け守る。それがタダシの正義なのだ。

タダシは、登場人物中、最も精神的に成熟している。

それに対し、技術的・知識的な面ではどうだ?

サンフランソウキョウ工科大学のキャラハン教授に学び、ロボットを作っているくらいだから、一般人よりは技術レベルは高い。しかし、弟ヒロとは比べると遥かにレベルが低い。それは、ベイマックスの開発記録を見ても明らかだ。何十回もバグを出し続け、やっと正常に動き始める。開発完了したベイマックスの、ヨチヨチ歩きを見ても、それほど高い技術力があるとは思えない。

精神的は大人、技術力や知識は子供、それがタダシだ。

弟ヒロ ハマダ。ヒロは弘か? 英語の HERO(英雄)か? もしかすると、ヒロはニックネームで、本名は英雄(ひでお)かもしれない。

ヒロの技術力は高い。映画作品中、最初から最後まで頂点だ。他の登場人物、キャラハン教授やクレイに至るまで、ヒロの技術力には及ばない。

その開発力は驚異的で、一切バグを出さない。ヒロに渡った後のベイマックスの驚異的な進化を見ただけで、ヒロとタダシの技術力の差は明らかだろう。

しかし、精神的には未熟だ。有り余る才能・技術力・知識を何に使った良いか判らない。ロードファイトに時間を潰し、ベイマックスを強化した後も、時には暴力に走るなど、精神的に不安定だ。

精神は子供、技術力は大人、それがヒロだ。

タダシとヒロ。

この二人が意味するのは何だろう。

映画を見た後しばらく考えた。数日経って判った。

ヒロは、現代日本の象徴だ。

バブル崩壊後、自信を喪失し、何をすれば良いのか迷い続けている。

技術も知識も才能もある。しかし、何が正しいのかわからない。

タダシは、過去の偉大なる日本の象徴だ。

タダシは「サムライ」の精神を持つ。

常に理想を高く、己の正義を貫く。

自分の知識・技術・才能が不足していることも自覚しており、それを改善すべく、勉学に励み、研鑽を怠らない。

タダシと言う「正義の精神」を失った、現代日本の「ヒロ」は何をすれば良いのか判らない。ロボットファイトに無駄に才能を使ったり、時には感情的に暴力をふるおうともする。

それをただすのは、タダシの学友たちだ。

学友には白人も黒人も黄色人種も居る。

若い彼らはアメリカの象徴だ。(年上の執事は、英国などヨーロッパの象徴だろう)

アメリカと言う国が、迷っている日本に対し、「君には才能も技術も知識もある。何を迷うことがあるか。正しい道へ進むんだ」とエールを送っているのが、この映画の4つ目のテーマだ。

【第5階層 現代アメリカの自戒】

ベイマックスの本編が終わり、エンドロールの後、フレッドが自宅に帰り、父親の部屋に向かって「俺は正しいことをしたよね」とつぶやき、部屋から出てきた父親が「息子よ、語ろうではないか」と言ったラストシーンがある。

多くの人は、このシーンを「なんのこっちゃ」と思ったかも知れない。

それもそのはず、このシーンは我々日本人に向けられたものではないから。このシーンはアメリカ人の観客に向けられたメッセージなのだ。

フレッドとは、何だろう?

彼は学生ですらない。陽気でおちゃらけていて、親が金持ちで生活に困らない。

彼は現代アメリカ、特にベトナム戦争の後のアメリカの象徴だ。過去のアメリカの遺産で豊かで、表面的には陽気で楽しい生活を送っている。

日本のような遅れた国に対して、正義とは何かを教える指導をする。

しかし、その「正義」が本当に正しいのか?

自分たちのしたことが正しいことなのか?

そう言った自信が無くなっている。

フレッドの父親は、1960年代以前の強いアメリカの象徴だ。

(この父親スパイダーマンなどの原作者スタン・リーなので、フレッドの独白を50年代のアメリカンコミックヒーローを、21世紀風にアレンジして作ったベイマックスを、これで正しかったのかと尋ねているようにも取れるが、私は親子を過去と現代のアメリカの象徴と考えた)

第二次世界大戦を勝ち、人類を月に送ったアメリカ。自信に満ち、正義を世界に示したアメリカ。それがフレッドの父親だ。

その過去の栄光に対し、現在のアメリカは迷いがある。

ベトナム戦争以降、湾岸戦争など、本当の正義は何なのか?自分たちのしていることは正しいことなのか?

この問いに答えはない。だから「息子よ、語ろうではないか」で終わっているのだ。

以上が、映画に込められた5つの階層のメッセージだが、それ以外にもトピックがある。

【番外その1 伽藍とバザール】

「伽藍とバザール」を知っているだろうか?

もし読んでいないなら、ネット上にあるので是非読んで欲しい。

http://cruel.org/freeware/cathedral.html

「伽藍とバザール」は Linuxなどオープンソースの開発の方法の基本的思想である。

簡単に言えば、「バザール」はオープンソースを示し、「情報を公開して、大勢でワイワイと意見と知恵を出し合えば、ずっと良い物を作れる」と言う思想だ。

一方「伽藍」は従来式の開発方式で、管理主義・秘密主義・権威主義などを示す。

ジョン・ラセターは、オープンソースの人であることは間違いない。

オープンソースUNIXの草分け、BSDのマスコットのデーモン君の初代イラストはラセター氏自身の筆によるものだし、Linuxのディストリビューションの雄、Debianの代々のコードネームはラセター監督のトイストーリーのキャラクターから取られている。(Debian Linux リリース初代 V1.1はバズでありV3.0はウッディだ。その上、全世代のDebianを通してのDebianのロゴは、バズ・ライトイヤーのあご鬚を上下さかさまにしたものだ。ちなみに、バズ・ライトイヤーは、ラセター自身をモデルにしている)

映画「ベイマックス」は、2つの意味で「伽藍とバザール」を示している。

一つは、ベイマックスと言う映画自体の作り方だ。これは、NHK「魔法の映画はこうして生まれる~ジョン・ラセターとディズニー・アニメーション」を見て判ったのだが、一つの映画を、ほぼ完成状態で、他の作品の映画監督に見せて、ワイワイと意見を出すこと、それが「バザール方式」だ。ラセター氏にとって、旧来のディズニーが「伽藍」、ピクサーと新生ディズニーが「バザール」なのだろう。

もう一つは、作中に現れる。

ヒロの開発方式が「バザール方式」だ。情報を公開し、色々な人が創意工夫を付け加えることでより良い物が作れる。

実は科学技術は、本来「バザール方式」なのだ。現在の秘密主義は科学者や技術者自身が望んでいることではない。政治家とか経営者とか、そう言う管理をしたい人が秘密主義を望んでいる。

そう言った意味で、軍がクレイに依頼して開発していた物質転送装置は「伽藍」の象徴。秘密主義と官僚主義、見栄と欲望の「伽藍」は崩壊していく。

【番外その2 東工大】

サンフランソウキョウ工科大学のモデルは、東工大(東京工業大学)だ。

キャンパスの芝生の雰囲気も似ているし、キャラハン教授のマークも東工大の校章も「つばめ」で非常に似ている。

ヒロが「マイクロボット」を見せる発表会は、東工大で毎年行われる技術公開会にそっくりなのだ(映画の中ほど派手ではないが)。

また、東工大にはロボットの日本の権威 広瀬茂男教授が居る。残念ながら、広瀬先生は2年前に東工大を定年で退職されたが、広瀬先生やその師の森政弘先生など、常に東工大は日本のロボット技術のトップである(高専ロボコンも森先生が始めたことだ)。

つまり、サンフランソウキョウ工科大学は東工大がモデルで、キャラハン教授は広瀬先生がモデル、そして、タダシたちは、広瀬先生の研究室でロボットを作っている学生たちがモデルなのだ。

ラセター氏が、東工大に来たことなんかあるのか・・・と考えていたら、思いついた。

ハードウエア界のオープンソースである Maker Faire Tokyo は、現在は国際展示場や科学未来館で開催されているが、4年前まで毎年、東工大の体育館で開催されいた。

東工大の体育館は、キャンパスの小高い芝生のその先、まさにヒロがマイクロボットを見せる発表会を行った会場と同じ場所にある(ちなみに東工大の体育館は、あんなに近代的な建物ではない。東工大では図書館が近代的な建築物だ)

オープンソースに興味のあるラセター氏が日本に来た時、Maker Faire Tokyo が開催されていたら、東工大に来ていてもおかしくない。東工大に来たなら、ロボットの権威である広瀬先生に会っていてもおかしくない。

その時の東工大の雰囲気が、映画作品中のサンフランソウキョウ工科大学に反映されていると考えてもいいだろう。

(ちなみに、私自身、東工大の非常勤とは言え准教授なのだが、広瀬先生の引退された現在の東工大には、サンフランソウキョウ工科大学ほど面白そうに思えないが)

とまあ、好き勝手に、私の憶測を書いたが、どこまで本当なのかは、何の保証もない。

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